VATE:大学での授業は如何でしたか?
僕はね、建築=建物だけだとは思ってないんです。もっと大きな空間をイメージしてたんですよね。建物もその空間の一部である、と。でも学校のカリキュラムはやっぱり建物なんですよ。いかに建物を作るか。もちろん建物もあるんですけど、それが全てではないんじゃないかというのはすごく感じてました。
VATE:しかし鄭さんと同じような考え方の人って少なかったんじゃないですか?
いたかもしれないけど少なかったですね。僕は当時からコンセプトがすごく重要というのが自分の中にあったので、それを曲げたりしなかったですね。だから本当に一個も賞みたいなのはとれなかったですね、学生時代は。
VATE:つまり教授をはじめ、周りからは理解されなかったと。
君の言ってることはよくわからない、と言われてました。でもそれは単に判断基準が作れてないだけじゃないのかな、と思ってましたね。かといって別に異端児でいきたいとかそういうわけではなくて。
VATE:挫折感みたいなものがありましたか?
学校のカリキュラムにおいては挫折感というのはありましたね。
VATE:大学生の時はどんな活動をされてましたか?
大学一年生の時に後のインテンショナリーズを一緒にやる事になる遠藤と大堀という二人との出会いがあったんです。文化祭の時に大きなイベントが2つあって、遠藤と僕は4日間だけのディスコを造り、大堀は屋外で足場の材料を使って移動する建築を造ってたんですね。まだバブルだったから、学生の企画書に企業も協賛してくれて、ディスコは体育館の中につくったんですよ。僕は音楽とかやってたんで、音楽と映像がやりたくて当時はFarlight CVIっていうビデオ・エフェクターをどうしても使いたいと思って(笑)、それをやりたくて映像をやってみたんですよね。
VATE:イベントはいかがでした?
千数百人入りましたね。僕のDJデビューそれですから(笑)。いきなり千人の前でやっちゃって、なんかけっこう燃え尽きた感があって。もうちょっと映像とかいいかなみたいな(笑)。
VATE:(笑)。学科において評価されないという、ある意味鬱屈とするような時代だったかと思うんですが、大学の次はどう考えられてました?
まぁ、そういうのを真剣にやる中でなんとなく自分には何も無いな、というのがあったんですよ。それで大学院に行こうと思ってある国立大の研究室に行ってみたりしたんですけど、なんかもう武蔵美よりもっと重苦しいんです。その世界はその世界で。
VATE:なるほど。
それで結局、武蔵美にいました。大学院ではコンペばかり出してたんですけど、一方でそれでいいのかと思っていて。まぁどこかで逃げですよね。並行してDJなんかはやってましたけど。