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VATE:お仕事として自分の書いたコピーに手応えを感じられたのはどれくらいのタイミングだったんですか?

 

5年目のときに千葉ロッテマリーンズという球団の年間キャンペーンを担当させてもらえたんですね。ロッテファンだった事もありそれ自体も嬉しかったんですけど、最後までずっと書き続けることができて。その中でいくつかこうやってみたらファンとしても面白いのにと思っていたことが実際に言葉として表現できたんです。結果として世の中もざわついたりだとか、客観的な評価では賞を頂くことも出来たので、これは間違ってないかもというか、こういう事でやっていけるなら、この後もやれそうだぞというのはこの仕事で獲得できたんですね。

 

VATE:自分の書いたコピーで世の中が動いたのを実感出来たんですね。

 

相手を挑発するようなアプローチの言葉だったんですよね。楽天が新規参入してきて、その記念すべき最初の相手がロッテという。日本中の注目が集まる節目で、楽天球団を挑発して出迎えるという事をやったら、NHKのニュースにもなって。

 

VATE:それはすごい。

 

それまではちょっとエモーショナルなアプローチというか、先輩や周りの影響も凄かったんですけど、ちょっと文学っぽいものがコピーだぞみたいな事を教え込まれてもいたから、そういう事ばかり書いていて。ただ自分に人生経験もないから、深みもないし、リアルもないから、何かどっかで見たことあるみたいなものを書いてるという自覚はあって。誰が書いてもいいことを書いてるなという風に思っていたんですけど、ロッテの仕事を経てから自分が出来ることはこういう事かもなと思えるようになったんですね。

 

VATE:実際に世間の反響もあって、手応えを感じられたと。

 

そうですね。そこからはぶれなくなって。今に通じていると思いますね。

 

VATE:博報堂時代は先輩方の教えもあるとは思うんですけど、それ以外に渡辺さんが仕事の勉強として取り組まれていたことはありますか?

 

ちゃんと勉強するような時間はなかったですね。仕事の中でしか学びがなかったというか。今の方がいろんなものを見たり、感じたりみたいなことが出来ているんですけど、その頃は「コピー年鑑」という、広告の年鑑を見て、それこそ写経みたいに書き写したりだとか、そういうことばかりやっていましたね。

 

VATE:仕事の周りのことから、全部学び取ると。

 

そうですね、そこでしか自分の世界がなかったから。当時会社のあった田町というところは今でこそ高層マンションもあって開けた感じになってますが、当時は何もなかったんです。もう面倒くさくて渋谷とか新宿とかに行けないっていうか、銀座とかに映画を見に行くのも間に合わないから、結局何もしてないっていう感じでしたね。よくそれで物を作ってたなと思いますけどね。

 

VATE:自分が一消費者としてありえない生活をしてると消費者の目線に立ってコピーを書くのって難易度高い気がするんですけど。

 

売り場を見て来いとかって上司に言われるんですけど、そんな時間がない中でいつ行けって言ってんだろうなみたいなことは思ってましたね。その頃のことはなんかぎゅってスクラップされた記憶みたいになってて広げてもあんまり解像度は上がらない感じなので、おそらく大変だったんでしょうね。身も心も。

 

VATE:辛い記憶が強そうですね。

 

それが嫌で辞めてるし、だからこそ今こういう生活になってるんですけど、無駄だったかというと全くそうは思ってなくて。その頃の「考え続ける筋肉」とか、「粘る」みたいな事は今に確実に息づいているから、それを否定できないのもまた辛いところというか。そんな感じですね。

 

VATE:博報堂を退職されるわけですが、独立を考えられていたんですか?

 

独立は全く考えてなくて。自分が出来ることは広告だし、とにかく結果を出してここから出たいというエクソダスな気分というのはすごくあったんだけど、自分でやるみたいなことは全くリアルには思ってなかったんですよ。

 

VATE:なるほど、それでどうされたんですか?

 

当時クリエイティブブティックと言われるタグボートさんを筆頭に、代理店から独立した人が小さいユニットとして会社を立ち上げるみたいなことが流行ってたんですね。その中にとあるクリエイティブディレクターが立ち上げられたクリエイティブブティックがあって。