ミシガン在住のころ

写真が好き、というだけではついていけない世界でした。

VATE:ご自分のスタジオ設立まで、かなりいろんな経験をされたんですね。

写真が好きでそれを仕事として成立させたということは、夢が叶ったということですよね。

ではなぜ、日本に来られたんでしょうか?写真家としてのキャリアを捨てるつもりで日本に来られたんですか?

 

夢は叶いましたが、現実は厳しい。ニューヨークで成功しようと思うと、写真以外のことで随分がんばらないといけません。パーティーを開いたり、自分を売り込むためにいろいろ画策したり…。おまけにファッション・フォトの世界はホモが多い…。純粋に写真が好き、というだけでは、ちょっとついていけない世界でした。

 

VATE:それで写真はやめようと?

 

そんな風に悩んでいる時に仕事で大失敗をしてしまって。それをきっかけに写真界から足を洗おうと思いました。

ちょうどその時に大学時代の友人夫妻に再会。彼らは日本の高校で英語を教えていて、私の窮状を見て日本で英語を教えたらどうかと勧めてくれたのです。たまたま広島の学校で教師を求めているという事でしたので、軽い気持ちで日本に行くことにしました。

それは日本で万博が開かれた1970年のこと。私は30歳になっていました。

 

VATE:とりあえず写真から離れてみよう、と。

そういう感じで日本にこられたワケですよね。

1970年当時のニューヨークというのは、どんな感じだったんですか?

 

1970年頃のニューヨークは、ペースがすごく速く、みんながあくせく動き回っていたという感じでした。私もよく働きました。

写真スタジオのアシスタントをしていた時は、通常の仕事が終わった後、スタジオにモデルの女性たちに来てもらって、個人的に写真を撮っていました。

モデルは自分のポートフォーリオを増やしたいし、私は腕を磨きたいし、という事でお互いのためになったのです。とにかくみんな一生懸命でした。

ニューヨークの街は汚くて、治安も悪く危険でした。最近ニューヨークに行くと随分きれいになっているなと感心します。治安もよくなってますしね。

 

VATE:30歳からの再出発、しかも異国の地でというのはどんなものだったんですか?

日本に来られて、どんなことを感じられましたか?

 

こんなことをいうと怒られますが、最初日本人がみんな同じ顔に見えて困りました。慣れるのに2カ月ほどかかりましたね(笑)。

羽田に着いた後、東京に3~4日滞在し、それから新幹線で大阪まで行きました。当時新幹線はまだ東京-新大阪間しか開通していませんでしたから、山陽本線の特急に乗りかえて広島へ行きました。

見るものすべてがおもしろかったですね。